一部のネットではたかじんの出自についてが大きく取り上げられた。「たかじんのそこまで言っても委員会」やってた人が在日朝鮮人だった(出身地も西成区を天王寺区とごまかしていた時期があった)というのが結構驚くとともに、長いこと連れ添ったスタッフや会社を結構素早く切って行くことや東京に対するアンビバレンツな感情などが取材で明らかになていく。歌手としては東京で売れなければいけないというプレッシャー、何回か東京に進出しているが(秋元康とはその際に知り合っている)、それが失敗する旅に東京への複雑な感情を持つものの、自身の最大のヒット作が「東京」という曲という最大の皮肉が面白い。
読んでいくと非常に気の弱く優しい人で、プレッシャーに弱く繊細で自分を演じているという点において横山やすしを思い出させる。小林信彦の「天才伝説・横山やすし」に書かれた自分のキャラに憑依する横山やすしに似た人だなぁと思った。
自分を演じるのに疲れていたという証言もこの本には書かれている。
基台の頭の回転の早さと繊細さ、自己演出。
辛坊治郎という「巨悪」 – kojitakenの日記
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20150226/1424908986
を読んで思ったんだがたかじんはそのような出自で政治には一定の距離を撮っていたのになぜ「たかじんのそこまで言っても委員会」を始めたのか考えてみたんだが、芸能という点で見ると上岡龍太郎の不在が大きいじゃないだろうか?
関西芸能人には「理屈言い」とも言えるジャンルがある。その理屈は正確でなくてもよく「屁理屈」でもいい。その上岡龍太郎が関西芸能界で唯一と言ってもいいくらい見事な引き際(引退)によりこの「理屈言い」の枠が開いた。そこに入ってきたのがたかじんだったじゃないだろうか?そこまで言っても委員会のパートナーが辛坊治郎というのもよみうりTV制作という要素以外に、辛坊治郎が上岡龍太郎から最も嫌われた在阪民放局アナだったというのが皮肉にも物語っている。上岡が辛坊治郎を嫌った理由は「アイツは芸人を見下している」というものだったが芸人ではなく歌手であるたかじんにはあってたんだろう。
たかじんが関西芸能界に残した功罪のうち、そこまで言っても委員会は罪の部分だと思っている。関西において時折右な発言をするというのはラジオの得意技だったんだがそれをTVに持ち込んだというのはたかじんの発明であり、今の状況を作ったすくなくない要因だと思う。
ある時、たかじんのブログに「俺はフリップ芸を極めたい」という事が書かれていた。あの指し棒とフリップで笑いを取る方法はすきだったのでそれはいい!と私は同意したんだが、くしくも委員会にはフリップはなかった。
あのへんから自分の望む芸が出来なくなっていったのかもしれない。
ということで芸能の視点からたかじんのあれこれをまとめず書いてみました。